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つながっている=習慣、都市は習慣を持つ

8月1日のミーティングで「つながっている」ということを何を根拠に言い表したら良いのか難しいという話があった。私は「つながっている」とは習慣から生まれるものだと思う。
そして、都市の動画が「つながっている」ように見える限り、都市は習慣を持つと言える気がする。
話の中でジャズやヒップホップの話が出てきたので(あの話は音楽の話かもしれないが)、まず「つながっている」ことをダンスから考える。この動画を見て欲しい。一番分かりやすいところを時間指定してある。

「山田優、朝のスキンケア術と素肌感を生かしたメイクアップを紹介。 | Beauty Tutorial
supported by CHANEL | VOGUE JAPAN」
03:36
04:18
[Massage ASMR] 얼굴축소 + 수분탄력 마사지 / Facial massage / Korean Spa aroma
massage
0:36

これらの慣れた手捌きを私は直感的にダンスだと思った。滑らかで無駄のない、迷いのない動き。見ていると、まるで自分が施されているような気分になって気持ちいい。
次に、普通「ダンス」と呼ばれるダンスの動画を 2 種類例に挙げる。

William Forsythe-Solo-Noah De Gelber
Danzel (INA) vs Calin (JPN) | 1v1 Final Battle | Waack To Life Vol. 1 Jakarta, Indonesia |
RPProds
2:50

こちらの二つの動画を「ダンス」じゃないと思う人はいないと思う。William forsythe はコンテンポラリーダンス、下の wacck battle はストリートダンスであり、スタイルは全く異なるが、それでもこれらを「ダンス」として一括りにまとめられている。
ではこれら4つの「ダンス」の共通点は何かと考えたとき、「習慣」という言葉が思いついた。メイク動画の人はメイクに慣れているだろうし、フェイシャルマッサージの人も毎日の仕事だからその手の動きに迷いがない。即興のダンスも同じだ。フォーサイスもカリンも今この場の流れで踊っているが、日々の練習=習慣が基礎にあるために、即興で踊ってもつながっているように見える。ギクシャクして見えない。逆に下手な人は迷いが見える。振り付けももちろん習慣だ。練習してその流れを体に染み込ませる。
つまり、その主体に習慣があるから、つながって見えるのであり、そのつながっている様子を我々はダンスと呼ぶのではないだろうか。
習慣=ダンスなら、日常全部ダンスじゃん、でも日常全部ダンスだとは思えない、と思う人もいるかもしれないが、そこは「つながりのなめらかさ」の程度の問題だと思う。コンテンポラリーダンスやストリートダンスをまごうことなき「ダンス」だと思えるのは、彼らが滑らかさを追求しているからであり、我々も極上のなめらかさが追求されたものを「ダンス」だと認識して消費しているからだと思う。それは私も同じで、メイク動画もフェイシャルマッサージの動画もクリームなどの力を借りてスムーズに手が動いているところ見て「あれ、これダンスじゃん・・・?」と気づいた。わかりやすい「なめらかさ」=デフォルメはダンスだと気づきやすい、というだけであって日常はダンスで溢れていると思う。

参考:GREEK SALAD Dance Event’15(1). Aya Sato & Bambi [Skinny Patrini ‒ You Suck
My Face]
4:02

このつながり=習慣を都市の動画の問題に発展させる。都市を写した動画に対して、自分がとった動画を適当に組み合わせても、他人が撮った動画を組み合わせても「つながっている」ように見えるという実感があるのとしたら、それは「都市」が習慣を持っていると言っていいのではないだろうか。
メイク動画もダンスの動画も、習慣を持っているのは我々ではなくその動画の中で行為を行なっている主体であった。とすれば今回都市の動画を見て「つながっている」と感じた
のであれば、習慣を持っているのは動画の中の主体であり、「都市」の方だろう。
都市の動画は編集されているが、ダンスも編集である。手を上に上げる、右足を踏み込む、直後に左足を大きく開く、ダンスはこのような動作を組み合わせて、編集して成り立つ。
ただ、ここで鑑賞者の習慣の問題も浮上する。鑑賞者は「習慣」を持たなくても、観察物の「習慣」を見抜くことができるのだろうか。例えば私が「ダンス」の習慣に気づいたのは私がストリートダンスの経験者であり、メイクをしたことがあり、フェイシャルマッサージの経験がたまたまあったからかもしれない。経験したことのない「習慣」に出会った場合、観察者がその「習慣」に気づくことができるのだろうか。
逆に、「都市」の習慣に気づくことができたのは我々にも「都市」の経験があったかもしれない。観察者の経験と、対象物の習慣が呼応して、つながっているように見えるのかもしれない。
都市が習慣も持つ限り、都市の動画はつながり続ける気がする。巧拙はあれど、つながらない、ということはないのではないだろうか。