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土木についてのノート – クラザンヌ採石場跡

中間ミーティングの日。
私は繋がったり切れたりするインターネットに若干イライラしながら、ボルドーからパリへ向かう電車の中にいた。やっと繋がったかと思うとすぐトンネル。途切れ途切れの情報によると、藤原さんも移動中で新幹線の中らしい。良好な接続環境がとても羨ましくなる。ジャパニーズテクノロジーという言葉が思い浮かんで窓の外に目をやると、こっちは暑さで干からびた畑しか見えない。これじゃあ繋がらないよなー。接続を諦め一気に暇になり、iPhoneの写真をスクロールする。
〈写真を見ながら、土木についてぼんやり考える。前半のワークショップで一番リアリティがあったのは、「都市では土木が映らない」ことだった。完成された都市の土木は隠されているか、もしくは忘れ去られている。そして何より、土木はでかい。でかすぎて掴めない。土木のスケールを前に、個人の身体は何だか無力で頼りないものに感じてしまう。私は大都市で生まれ育ったから、今まで「土木の経験」というものをほとんどしたことがないし、考えたこともなかった。今回映像を制作しながら、土木とは? と考えていたのだけれど、結局のところそれが何なのかしっかりと掴むことはできなかったのだ。〉
バカンス中撮りためた写真のうち、フランス西部クラザンヌ採石場跡を訪れた時のものが目に入った。1948年に採石がストップして以来、採石場には植物が自生し、現在では自然保護区となっている。私が訪れた日はとても暑かったが、植物が茂る採石場跡へ続く階段を降りるうちに、全身の皮膚がひんやりとした空気に包まれたのを覚えている。
案内人と複数の採石場跡を見学しながら進むと、壁面にぽかりと開いた、3立方メートル ほどの穴のような空間に辿り着いた。当時の採石職人が、息子と二人で三日ほどかけて拓いた場所らしい。ちなみにこの採石場では、機械を使わずピックというツルハシに似た道具で石を掘っていたのだけれど、三日でこの大きさというのは相当早いペースのようだ。 彼らが三日以上掘り進まなかったのは、Silex(フリント)が出てきたためである。Silexが入っている石のブロックは質が悪く、これ以上掘っても良いブロックは採れないと判断したのだろう。
空間へ入り右下の壁には小さくPaulというサインが残っている。しかしながら、その控え めなサインより断然心を奪うのは、空間内のいたるところに存在する、石が削られた跡だ (実際、削り跡のみを夢中になって撮っていて、サインの写真を撮ることをすっかり忘れてしまった)。一つのブロックごとに、長い線状のくぼみの群れが、ある一定の方向へと 力強く規則的に流れている。空間の中にいると、削り跡の持つ流れの一部になり、その勢いにぶわりと揺り動かされるような感覚が芽生える。

削り跡は、装飾的な意味でここにあるわけではない。ここでの採石方法を簡単に記すと、まず、採りたい石の輪郭線上にピックで深く溝を掘っていく。この段階で、石に削り跡がつく。ある程度掘ったら、木のくさびを溝に差し込み濡らす。水分を吸った木材は膨らみ、その圧力で石が割れる。その後、先端がL字状の棒を溝に差し込み、石を引き出す。 つまり、削り跡は、石を引き出して初めて人の目に晒される。石を掘っている最中にそれ を見ることは不可能なのだ。
空間は生茂る木々のおかげで薄暗いが、採石場が稼働していた当時は植物が全く生えておらず、強い日差しが直接岩場に照りついていたという。また、稼ぎは良いが過酷な肉体労 働のせいで、採石労働者の寿命は他の人よりも短くキャリアの終わりには盲目になること
も少なくなかった。削り跡に対し、それが作られた段階では、視線は意味をなさない。今私が削り跡を見るとき、私はピックを振るった職人の動作に巻き込まれている。
壁を触ってみると、ひんやりと冷たく、湿ってはいるが確かに堅い石。人の力が、こんなに堅固な表面へ跡を残せるなんて。驚きだ。
案内人によると、当時の職人の動作は大きく分けて二つある。腰を捻りピックを水平に振るうのがひとつ目。ふたつ目は背骨を前後に動かしピックを垂直に振るう動作である。この二つの動作を幾度も繰り返し、岩を掘ったらしい。何かをするために設えられた場所
(劇場など)と違い、この空間は、「掘る」動作をすることで作られている。繰り返し行われた動作が空間を拓く。空間には職人の動作の方向と勢いがそのまま刻印 (Empreinte)されているようだった。ピックの一撃一撃が一気に迫ってくる。私は本当に圧倒されてしまった。空間から発される強固な、「掘る」という意志に。
もしかすると、これが土木なのではないか?
パリに戻りこの文章を書いている。自然に対する人間の意志が土木であるならば、都市で カメラに土木が映らないのは納得がいく。大抵の場合、都市は自然の荒々しさに人間の生活が直接触れないようできているからだ。都市では「ザ・土木」が見えずとも、メンテナンス工事の時などにその片鱗が見えるのだろう。
では、自分の立ち位置=都市から土木に近づくための身体とは一体何か? 私にはまだ分からない。しかし、バカンス出発前と違い今は、クラザンヌの削り跡の堅固な感覚が私と共にある。