202008220502_yuni

土木についてのノート – クラザンヌ採石場跡

中間ミーティングの日。
私は繋がったり切れたりするインターネットに若干イライラしながら、ボルドーからパリへ向かう電車の中にいた。やっと繋がったかと思うとすぐトンネル。途切れ途切れの情報によると、藤原さんも移動中で新幹線の中らしい。良好な接続環境がとても羨ましくなる。ジャパニーズテクノロジーという言葉が思い浮かんで窓の外に目をやると、こっちは暑さで干からびた畑しか見えない。これじゃあ繋がらないよなー。接続を諦め一気に暇になり、iPhoneの写真をスクロールする。
〈写真を見ながら、土木についてぼんやり考える。前半のワークショップで一番リアリティがあったのは、「都市では土木が映らない」ことだった。完成された都市の土木は隠されているか、もしくは忘れ去られている。そして何より、土木はでかい。でかすぎて掴めない。土木のスケールを前に、個人の身体は何だか無力で頼りないものに感じてしまう。私は大都市で生まれ育ったから、今まで「土木の経験」というものをほとんどしたことがないし、考えたこともなかった。今回映像を制作しながら、土木とは? と考えていたのだけれど、結局のところそれが何なのかしっかりと掴むことはできなかったのだ。〉
バカンス中撮りためた写真のうち、フランス西部クラザンヌ採石場跡を訪れた時のものが目に入った。1948年に採石がストップして以来、採石場には植物が自生し、現在では自然保護区となっている。私が訪れた日はとても暑かったが、植物が茂る採石場跡へ続く階段を降りるうちに、全身の皮膚がひんやりとした空気に包まれたのを覚えている。
案内人と複数の採石場跡を見学しながら進むと、壁面にぽかりと開いた、3立方メートル ほどの穴のような空間に辿り着いた。当時の採石職人が、息子と二人で三日ほどかけて拓いた場所らしい。ちなみにこの採石場では、機械を使わずピックというツルハシに似た道具で石を掘っていたのだけれど、三日でこの大きさというのは相当早いペースのようだ。 彼らが三日以上掘り進まなかったのは、Silex(フリント)が出てきたためである。Silexが入っている石のブロックは質が悪く、これ以上掘っても良いブロックは採れないと判断したのだろう。
空間へ入り右下の壁には小さくPaulというサインが残っている。しかしながら、その控え めなサインより断然心を奪うのは、空間内のいたるところに存在する、石が削られた跡だ (実際、削り跡のみを夢中になって撮っていて、サインの写真を撮ることをすっかり忘れてしまった)。一つのブロックごとに、長い線状のくぼみの群れが、ある一定の方向へと 力強く規則的に流れている。空間の中にいると、削り跡の持つ流れの一部になり、その勢いにぶわりと揺り動かされるような感覚が芽生える。

削り跡は、装飾的な意味でここにあるわけではない。ここでの採石方法を簡単に記すと、まず、採りたい石の輪郭線上にピックで深く溝を掘っていく。この段階で、石に削り跡がつく。ある程度掘ったら、木のくさびを溝に差し込み濡らす。水分を吸った木材は膨らみ、その圧力で石が割れる。その後、先端がL字状の棒を溝に差し込み、石を引き出す。 つまり、削り跡は、石を引き出して初めて人の目に晒される。石を掘っている最中にそれ を見ることは不可能なのだ。
空間は生茂る木々のおかげで薄暗いが、採石場が稼働していた当時は植物が全く生えておらず、強い日差しが直接岩場に照りついていたという。また、稼ぎは良いが過酷な肉体労 働のせいで、採石労働者の寿命は他の人よりも短くキャリアの終わりには盲目になること
も少なくなかった。削り跡に対し、それが作られた段階では、視線は意味をなさない。今私が削り跡を見るとき、私はピックを振るった職人の動作に巻き込まれている。
壁を触ってみると、ひんやりと冷たく、湿ってはいるが確かに堅い石。人の力が、こんなに堅固な表面へ跡を残せるなんて。驚きだ。
案内人によると、当時の職人の動作は大きく分けて二つある。腰を捻りピックを水平に振るうのがひとつ目。ふたつ目は背骨を前後に動かしピックを垂直に振るう動作である。この二つの動作を幾度も繰り返し、岩を掘ったらしい。何かをするために設えられた場所
(劇場など)と違い、この空間は、「掘る」動作をすることで作られている。繰り返し行われた動作が空間を拓く。空間には職人の動作の方向と勢いがそのまま刻印 (Empreinte)されているようだった。ピックの一撃一撃が一気に迫ってくる。私は本当に圧倒されてしまった。空間から発される強固な、「掘る」という意志に。
もしかすると、これが土木なのではないか?
パリに戻りこの文章を書いている。自然に対する人間の意志が土木であるならば、都市で カメラに土木が映らないのは納得がいく。大抵の場合、都市は自然の荒々しさに人間の生活が直接触れないようできているからだ。都市では「ザ・土木」が見えずとも、メンテナンス工事の時などにその片鱗が見えるのだろう。
では、自分の立ち位置=都市から土木に近づくための身体とは一体何か? 私にはまだ分からない。しかし、バカンス出発前と違い今は、クラザンヌの削り跡の堅固な感覚が私と共にある。

202008042356_azuma

つながっている=習慣、都市は習慣を持つ

8月1日のミーティングで「つながっている」ということを何を根拠に言い表したら良いのか難しいという話があった。私は「つながっている」とは習慣から生まれるものだと思う。
そして、都市の動画が「つながっている」ように見える限り、都市は習慣を持つと言える気がする。
話の中でジャズやヒップホップの話が出てきたので(あの話は音楽の話かもしれないが)、まず「つながっている」ことをダンスから考える。この動画を見て欲しい。一番分かりやすいところを時間指定してある。

「山田優、朝のスキンケア術と素肌感を生かしたメイクアップを紹介。 | Beauty Tutorial
supported by CHANEL | VOGUE JAPAN」
03:36
04:18
[Massage ASMR] 얼굴축소 + 수분탄력 마사지 / Facial massage / Korean Spa aroma
massage
0:36

これらの慣れた手捌きを私は直感的にダンスだと思った。滑らかで無駄のない、迷いのない動き。見ていると、まるで自分が施されているような気分になって気持ちいい。
次に、普通「ダンス」と呼ばれるダンスの動画を 2 種類例に挙げる。

William Forsythe-Solo-Noah De Gelber
Danzel (INA) vs Calin (JPN) | 1v1 Final Battle | Waack To Life Vol. 1 Jakarta, Indonesia |
RPProds
2:50

こちらの二つの動画を「ダンス」じゃないと思う人はいないと思う。William forsythe はコンテンポラリーダンス、下の wacck battle はストリートダンスであり、スタイルは全く異なるが、それでもこれらを「ダンス」として一括りにまとめられている。
ではこれら4つの「ダンス」の共通点は何かと考えたとき、「習慣」という言葉が思いついた。メイク動画の人はメイクに慣れているだろうし、フェイシャルマッサージの人も毎日の仕事だからその手の動きに迷いがない。即興のダンスも同じだ。フォーサイスもカリンも今この場の流れで踊っているが、日々の練習=習慣が基礎にあるために、即興で踊ってもつながっているように見える。ギクシャクして見えない。逆に下手な人は迷いが見える。振り付けももちろん習慣だ。練習してその流れを体に染み込ませる。
つまり、その主体に習慣があるから、つながって見えるのであり、そのつながっている様子を我々はダンスと呼ぶのではないだろうか。
習慣=ダンスなら、日常全部ダンスじゃん、でも日常全部ダンスだとは思えない、と思う人もいるかもしれないが、そこは「つながりのなめらかさ」の程度の問題だと思う。コンテンポラリーダンスやストリートダンスをまごうことなき「ダンス」だと思えるのは、彼らが滑らかさを追求しているからであり、我々も極上のなめらかさが追求されたものを「ダンス」だと認識して消費しているからだと思う。それは私も同じで、メイク動画もフェイシャルマッサージの動画もクリームなどの力を借りてスムーズに手が動いているところ見て「あれ、これダンスじゃん・・・?」と気づいた。わかりやすい「なめらかさ」=デフォルメはダンスだと気づきやすい、というだけであって日常はダンスで溢れていると思う。

参考:GREEK SALAD Dance Event’15(1). Aya Sato & Bambi [Skinny Patrini ‒ You Suck
My Face]
4:02

このつながり=習慣を都市の動画の問題に発展させる。都市を写した動画に対して、自分がとった動画を適当に組み合わせても、他人が撮った動画を組み合わせても「つながっている」ように見えるという実感があるのとしたら、それは「都市」が習慣を持っていると言っていいのではないだろうか。
メイク動画もダンスの動画も、習慣を持っているのは我々ではなくその動画の中で行為を行なっている主体であった。とすれば今回都市の動画を見て「つながっている」と感じた
のであれば、習慣を持っているのは動画の中の主体であり、「都市」の方だろう。
都市の動画は編集されているが、ダンスも編集である。手を上に上げる、右足を踏み込む、直後に左足を大きく開く、ダンスはこのような動作を組み合わせて、編集して成り立つ。
ただ、ここで鑑賞者の習慣の問題も浮上する。鑑賞者は「習慣」を持たなくても、観察物の「習慣」を見抜くことができるのだろうか。例えば私が「ダンス」の習慣に気づいたのは私がストリートダンスの経験者であり、メイクをしたことがあり、フェイシャルマッサージの経験がたまたまあったからかもしれない。経験したことのない「習慣」に出会った場合、観察者がその「習慣」に気づくことができるのだろうか。
逆に、「都市」の習慣に気づくことができたのは我々にも「都市」の経験があったかもしれない。観察者の経験と、対象物の習慣が呼応して、つながっているように見えるのかもしれない。
都市が習慣も持つ限り、都市の動画はつながり続ける気がする。巧拙はあれど、つながらない、ということはないのではないだろうか。

202007271226_tezzo

平倉さんの詩についての短いレクチャーを聞いて、詩を土木と結びつけて考えるというのはなかなか難しいことだと思った。「詩はゼロ人称の心物の傾きを制作する文である」と聞いて、文、ゼロ人称、心物、は実感を持って分かったと思うが、正直「傾き」と「制作」の部分を理解できているか怪しい。
しかし「文」が、いわゆる文字で書いたような文でありつつ、光や水のもよう、動物の足跡、黄河から出てきた巨大な亀の甲羅の玄妙な謎の模様などをも含むと考えてよければ、詩も、立石寺や最上川の景観、空間、そこで一句、という全体を指している、と拡張して理解してもいいのかもしれない、と半分納得した。

なぜ半分なのかというと、以下の二つのことを自分はうまく考えられていない気がするからだ。

一つには、土木のアーキテクチャ性について…みたいなことである。私はグラフィック・デザイナーではあるが、絵やロゴをシコシコ描いているので、ヨーロッパやアメリカの友人には用語的な分類から言えばイラストレーター、つまりコンテンツの制作者とみなされることも多い。デザイナーの本来の職能というのはアーキテクチャを作ることであって、コンテンツやオブジェクトではなくそれらが流通するプラットフォームの設計者という認識が強いのだ。例えば日本語で装丁というと、一つの宝物のような本をデザインする仕事というイメージがあるが、ブック・デザインというと、その中に収まっている情報を適宜編集整理してコンポーズする仕事、という印象になる。
土木とはそういうデザインのうち、フィジカルな規模においておそらく最大のものであって、その中に情報どころか実際の人間や人間集団を含み、時間的スケールでは人の一生、あるいは何世代もの人生を含む。
私は土木的スケールのアーキテクチャについて本質的なのは、その中でそれがどのような心物の傾きを制作しうるかではなく、その中ではどのような心物の傾きしか制作されない設計になっているか、であると思う。
アーキテクチャ的権力の行使とはまさにそういうことなはずであって、人の発想や行動をどのように自由にし、効率化し、しかし同時に制限するか、を目的としてるものなのではないか。だから、私の理解が正しければ、例えば立石寺や首都高や防波堤の詩性が、その中の空間(文)をのみ指すとしたら、それはいかに空間的広がりがあっても、ある土木的空間を充填している諸コンテンツの詩性であり、一顆の林檎とか一輪の花をめぐる詩と本質的には変わらないものだと思う。
人が「この土木的構造の中では決して見たり考えたりできないものとは何か」と考えるとき、そしてそのアーキテクチャの中ではそれを考えられない構造になってると気づくときに、土木というのを本当に考えることができるのだと思う(つまり東海道新幹線が「通らなかった」ルートや、東急田園都市線でのみ育った者が見聞きしたことのない踏切というものについて…)。ここでいう詩というものはそういう、認識の外へも行けるものとして考えていいのだろうか?という謎がある。

もう一つは単純な疑問で、詩を散文と比べて考えると、詩は誦さむものだということで、このことも土木と繋げて考えられるんだろうか、ということ。平倉さんも詩経を引いていたが、孔子は詩経三百余の作品を選んだのちそれらを「絃歌した」、つまり伴奏付きで歌えるようにしたとも言ったらしく、確かに詩は文でありつつ、しかしまた礼楽やダンスや単純労働中のリズミカルな勢いづけや呻き(?)から出てきたものでもある。
私が視覚偏重の仕事ばっかりしているからか、文というものを図像とか視覚的な記号としてはすんなり理解できるけど、詩は多くの場合韻文であって、聴覚的で音楽的なものなので、その辺りをどう考えればいいかというと私には全然アイデアがない、という感じで、心細くなった。