202010071000_「土木と詩」というテーマはどこからきたのか 〜RAUディレクター・ゲストアーティスト座談会 2

平倉圭:

三宅さんに『無言日記』のスタイルでワークショップをお願いしよう、とは最初に考えてたんですけど、その後コロナの影響でオンラインになって。先行きが何も見えなかったんですよね。その状態でワークショップの形式だけ決めこむより、まずは議論することを優先しようと。「土木と詩」っていうテーマをどの段階かで立てたんだけど、それも実体がわからないから、共有してじっくり考えようということで、最初の2か月くらいは「インプット期間」と位置づけて。藤原さんが「土木」というテーマで、「横浜の地形に対してどういうふうに物が配置されているか」っていう話をしたり……あと何があったかな。

三宅唱:

共同制作に関して、グループに別れて議論した回とか。

平倉:

それもありましたね。40人くらいいる参加者が、テーマについて毎回別のグループに分かれてとにかく話して、そのたびに自己紹介も起こるから、自己紹介を3、4回繰り返すみたいな。そこから各自の問題と固有の〈技〉も見えてくる。ハードといえばハードだったんだけど、結果的にオンラインの場所で、その場限りじゃない本当の問題が共有できた気がする。「この人たちとやってくんだ」っていう雰囲気を作っていった2か月でしたね。

藤原徹平:

最初に三宅さんからのミッション(*7)でみんなが写真を撮ってきたのって、いつだったっけ?

*7 第3回の講義で三宅唱が「写真を一枚提出してください」というお題を出した。

三宅:

7月末くらいですかね。オリンピックの開催予定期間が最初の撮影期間になっていたから。

藤原:

僕、「写真を一枚ずつ撮ってくる」の回に、想像よりずっと写真がよくて、すごくテンションが上がったんですよね。「いけるんじゃないかって」ってワクワクしました。

平倉:

写真一枚だけ、の他に条件がありましたっけ?

三宅:

今までインプットで話されてきたことに応答してみるっていう、それだけですね。

藤原:

それまで何の話してたんだっけ? 僕が平倉さんにロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェッティ』(1970)のレクチャーをお願いしたのが第1回?

平倉:

第2回です。初回が『THE COCKPIT』(三宅唱監督、2014)の話。

藤原:

あ、そうだ。みんなで見たんだよね。

映画『THE COCKPIT』より ©︎Aichi Arts Center,Pigdom

平倉:

『THE COCKPIT』の最終シーンで“Curve Death Match”っていう曲を作っていくんだけど……アパートの靴箱の上で即興的に作ったボールゲームがあって、そのボールの軌跡が描くカーブをラップで歌う言葉が、川に沿ってカーブする高速道路の映像に重なる。あの高速はどこですかね?

三宅:

常磐道に向かう高速ですね。隅田川沿いを走り、堀切ジャンクションで左に曲がって今度は荒川と並走するあたり。

平倉:

ああ、隅田川がぐうっと深く曲がるところですね! その映像がすごい必然性で。東京の狭いアパートの中で即席のゲーム盤におけるカーブの戦いについて歌ってた言葉が、隅田川沿いをグウーッとカーブして走る映像にバシっと繋がってて。その段階で「土木と詩」っていう言葉が頭にあったかどうかわからないですけど、そういう高速道路の経験みたいなものと、ダイアグラムが引かれた靴箱上のボールの軌跡と、それをラップで歌う詩と、っていうスケールの異なる経験をカーブが繋いでいるのが面白いっていう話を、初回にして。その後、それと似たようなものがあるよっていう流れで、私が『スパイラル・ジェッティ』を紹介したんです。ロバート・スミッソンが螺旋状の突堤を土木工事で作るんだけど、それをヘリコプターに乗って上空からグルグル撮影しながら、自作の詩を重ねるという。そうした紹介からインプットを始めていったんですね。それで、第3回に向けて「じゃあ、写真撮ろう」って。「詩とは何か」っていうことは、まだ特に定義も議論もせず。

藤原:

そうでしたね。定義の話で言えば、RAUを始める前くらいから気になっていたのが、ヘーゲルによるの芸術の分類(*8)。この中で「第一芸術」が建築なんですよ。それからだんだん抽象度が上がっていって、最後に出てくるのが詩なんです。

*8 ヘーゲルは『美学講義』において、芸術を精神の自由の度合いに応じて建築→彫刻→絵画→音楽→詩の順に分類し、段階が進むほどに高度化していくという体系を構築した。

三宅:

はい。

藤原:

僕は建築家ですが、「建築」は建築に内在する問題では定義できないのではないかとずっと感じています。二十世紀の建築家はそれを定義するために「空間」という概念を作ったんですけど、その曖昧さというか掴みどころのなさは結果的に建築を難しくしてる、というかつまらなくしてると思う。空間では建築を完全には定義できないとしたら、ヘーゲルの言う「第一芸術=建築」を拡張したほうが良いのではという気がしている。

その建築に先行する、土木とか環境とか、まずそこを定義していかないと、建築の定義はうまくいかない。そこから先の問題も全部うまくいってないんじゃないかという気がしてくる。人間が捉えようとしてきた「人間の創造」ということの範囲がヘーゲルの時代と今では全然違うのに、未だに出発点がそこにあることに問題があるのではないかと、ここ2年くらい考えていて。

平倉:

うんうん。

藤原:

それで、平倉さんとの授業で「この授業の目的はヘーゲルが『第一芸術=建築』って言ったことを疑って、芸術の始まりのスケールを変えることにあるんだ」みたいなことを、学生に宣言したんですよ。「土木と音楽とか、土木と詩みたいな、次元の違う問題を繋ぐ論理を探すのが、これからの大学院生の仕事だ」ということを言って。そこでなんとなく、「土木と詩」という言葉を使ったんですよね。

平倉:

うん、両極みたいな。

藤原:

そうそう。両極、一番遠いものを繋いでみるっていうので、そこで出てきたキーワードです。最初はそれをこのRAUでやるという意識はそんなになかったんだけど、今まで繋がっていなかったスケール同士をつないでいくような概念を探すことなんじゃないかということで、それでロバート・スミッソンを紹介してもらったんです。

平倉:

それが、第3回までに起きたこと。

ロングショットの想像力を持つこと

三宅:

最初は土木も詩もよくわからないところから出発して、オンラインのコミュニケーションにも不慣れだったし、どうすれば「講師/参加者」のような壁を壊してフラットな雰囲気にできるかなと不安もあったんですが、みなさんと同じテーマで課題を作ったりそれについて話し始めたあたりから、どんどんRAUの面白さがわかってきた。「わからなさ」をすぐ解決しようと焦らずに、いろんな「わからなさ」を寄せ集め合ってそれを共有しながら進めていくことが楽しみになってきて、手応えを感じましたね。

藤原:

そう。あと、RAUの参加者のレベルの高さっていうのがあって。

三宅:

ええ、本当に。

藤原:

「写真のすごさとは何か」という話題が出たのは思い出深いです。参加者の高野ユリカさんがミニレクチャーをしてくれて、それを見た平倉さんから「今まで写真ってよくわからなかったけど、すごい写真ってこういうことなのか」とコメントが漏れてきて。そのレベルの応答が受講生からあるっていうのが、このRAUのすごさだと思いました。

平倉:

写真一枚課題のとき、高速道路を撮った写真について、藤原さんが「横浜の地形にどういうふうに高速道路が配置されているのか」という観点でコメントをされたんですよ。あれは、RAUが動いた瞬間のひとつだったかな。

藤原:

そうでした。例えば東京と横浜では、どちらも地形は豊かなんですけどリズムが違うという話で。地形のつくるうねりの襞のリズムが違うんですよ。横須賀や鎌倉と横浜もまた全然違う。横須賀だと、リズムが急になっていくというか激しくなっていて、谷が小さくなるんですけど、横浜くらいだとまだ国分寺崖線(*9)の影響で谷が緩やかなんですよね。その緩やかな谷の中を、土木構築物が縫うようにして計画されている。横浜って、巨大な貨物倉庫ととか高速道路がバンバン通ってるんですけど、よく見ると地形の谷を埋める形で高速が通ってたりとか、トンネルだったのが橋になって、またトンネルになって……みたいなことがよくある。地形のリズムに沿ってトンネルと橋を交互に置き換えながら土木が計画されてて、地形と土木の応答、ないしは融合みたいなことが、横浜の都市計画の特徴だと思っていたんですよね。そういうふうに見ると、実は世界中の土木と地形の関係に、なんというか一緒にダンスを踊るような、リズムや特徴があるんですよ。

*9 武蔵野台地を多摩川が10万年以上かけて侵食していった結果形成された、総延長30kmにもわたって段丘が続くなだらかな斜面地。

平倉:

うん。

藤原:

香港は香港らしい自然物との関係があるし、例えばパリなんかも都市が大理石の岩盤の上に乗っているし、ニューヨークも岩盤の上に乗っかっている。「その岩盤がセントラルパークに露出してる」っていう話を平倉さんがしてくれたけど、実は人間が住む場所にはそういう地球との行為というか操作があって、「結局、それが土木の本質なんじゃないか」というのがRAUの議論の中で、僕の中でも先鋭化していって、定義ができた。RAUでは今、〈土木〉を「土地の形質の変更にかかわる技」と定義してるんですけど、多分ここまで土木を端的に定義できたことは歴史上ないと思うんです(笑)。これは建築にも関わる大きな定義だったなと思っています。

平倉:

このへんで、三宅さんが「土木にピンと来た」みたいなことをたしかおっしゃっていた。

三宅:

そうですね。高野さんが撮った写真と藤原さんの話で、ああそうかとかなり視界が広がりました。〈土木〉について考えるときの想像力は、映画の言葉で言うならば、「ロングショットの想像力」が要求されるんだなと気がつきました。

藤原:

「ロングショットの想像力」?

三宅:

広い視界をどう持つか、もっと言えば、ある出来事やアクションの結果をそれが起きた空間の中にどう位置付けるか、ということでしょうか。言い換えると、アクションと空間を切り離さずに、その空間・土地がなければそのアクションは生まれていない、という認識から生まれるのがロングショット。もちろん、全てを一度に捉えることはできないので「フレーム外の想像力」というのも同時に要求されると思いました。「どこからどこまでを〈土地〉と呼ぶか」という問いを孕んだショット、言葉ならそれを想像するための言葉があるかどうか。

一方、土地の〈形質〉にフォーカスする時には、いわばクロースアップショットの想像力が要求される。『THE COCKPIT』で言うと、ラストの外の実景シークエンスがロングショットの想像力による〈土地〉の顕れだとすると、対して室内シークエンスはクロースアップショットによって捉えられた〈形質〉の顕れになっている、というかんじでしょうか。こんな風に自作を捉えたことはなかったので、RAUによって初めて生まれた認識ですが。とにかく、ロングショットとクロースアップショットの想像力の足し算が、〈土木〉を捉えるための1歩目になりそうだと、可能性を感じ始めたんです。それから、マノエル・ド・オリヴェイラの監督第1作『ドウロ河』や『画家と町』なども個人的には刺激になりましたし、土木を探すようにして映画を観たりしていました。

藤原:

今のお話で、三宅さんの『やくたたず』(2010)を思い出しました。札幌の物語なんだけど、札幌ではなく北海道の冬の海を撮ってるということがあの映画において画期的で。フレーム外にあるものへの想像力を喚起させるために、絶対に必要なシーンですよね。あれがあることで、札幌という都市に対するリアリティが全然違う。

そういうことは映画にけっこうあって、コーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)も、大雪原のシーンに転換することによって、それまでなんとなく慣れてきた物語から全然知らない場所に連れて行かれて、自分との距離を突きつけられる。人間は必ず目で見ているものに慣れていって、しまうんだけど、一方でその目の外側への想像力も持てる。今の話を聞いてると、そこが三宅さんの映画のすごく本質的な部分で、見ている人にフレームの外を想像させるための技があるのかなと思いました。

平倉:

第4回から始まったワークショップで、10秒動画の課題が出ましたよね。ここまでの議論を踏まえて「土木と詩」をテーマに10秒撮ってこいと。私も、横浜の起伏が多いところに住んでいるから「よし撮るぞ」と思ったんですが、実際10秒で撮ってみると難しいんですよね。地形が撮れない。さっきの話でいうロングショットで撮るためには、すごく高いところに登るとか、クレーンで持ち上げるとか、すごーく長回しするとか、そういうことが必要なんだけど、10秒で徒歩だからそれはできない。体では今自分がどういう高さまで登ってきて息が切れてて、といったことがわかっているのに、それを撮ることができない。映像には自分の体感が写らないということに、まず「おお」と思った。

それでもなんとか撮ろうと思って急な階段を登ってみると、崖地の途中に突き出た、売りに出されている空き地があったんですよ。そこに引き寄せられるようにふらふら歩いて、下を覗き込むみたいにして撮って。そしたら、ワークショップでその映像が流れたときに、「なんだか飛び降りそう」という反応があったんですよね。体感は直に写らないんだけど、それでも何か撮れてるっていうか、伝わる部分がある。それがすごく面白かったですね。

三宅:

なるほど。たしかに、ある「撮れなさ」「写らなさ」に一回直面して、そこからどうブレークスルーできるのかと立ち止まった時に、RAUのメンバーたちの体や言葉が助けになってまた一歩前へと進めたような気がします。8月から9月にかけての出来事でしたね。

平倉:

さっき香港とかニューヨークの形質、土地の違いの話がありましたけど、直接には何も写っていないと思っていても、やっぱりそこにある具体的な何かが写って、蓄積されていくんですよね。みんなで10秒動画を撮ったあとにInstagramのアカウントを作って、撮影を続けて共有しようということになったんですが、そこに香港の参加者が撮った映像が溜まっていったりする。そうすると、私は香港に行ったことがないんだけど、なんだか香港という土地がだんだんわかってくる……みたいなことがある。一つひとつのショットに全部が写ってるわけじゃないんだけど、撮影が続いていくなかで、自分がいない土地の、目には見えない広がりが、他者の体と映像を通してちょっと体に入ってくるということが起き始めた感じがありますね。